こっちのコーヒーはMAXだよ

いつもの喫茶店に行くと、いつも僕が座る席に先客が。
見知らぬおっちゃんだ。
こういう場合、このおっちゃんがタイムマシンで未来から来た僕ではないかと推測する必要は、どれほどあるだろうか。
僕は20%くらいはあると思う。
別の席に座り、コーヒーを注文する。
ふと、誰かとの話を思い出す。
缶コーヒーの話だ。
「○○コーヒーは、甘すぎるよね。」
「あぁ、ぶっちゃけMAXコーヒーね。」
とかいう内容。
その中で、
「あのブラックはおいしいよ。飲みやすいし。」と言った僕に対して、相手は
「んー。でも、缶コーヒーのブラックは、単なる苦い水だよね。」でした。
僕は驚いた。
その理由は、缶コーヒーのおいしさ、ブラックに対する意見の相違ではありません。
「苦い水」って、ほたるが嫌がると思われているものじゃん!!、とかいうものでもありません。
苦い水。
僕は、コーヒーを飲むとき、数%くらいは「コーヒーは苦い水」だと思っていたのです。
見識を改めなくては。
見知らぬおっちゃんが店長と親しげに話しだす。
今回は、彼が未来から来た僕であることを考える必要は、ないだろう。
未来の僕は、この時代を選ばないだろうからである。

遺伝と物理の理系家族

電車の中では、やたらと走ってはいけない。
ご婦人。
子供たちを制御するんだ!!。
ご婦人。
なぜ、あなたたち家族はみんなそろって、同じ顔なんだ!?。
ご婦人。
そのジャンパーは、ちょっとどうか。
ご婦人。
なんかわからないけど、あなたの子供はゴルフがうまそうだな!!。
と、このような感じの家族たちが増えている。
マナーは守らなくちゃね。
ブログにも、こんな感じで書かれちゃうよ。
電車の中で走っていいのは、相対速度の実験をするときだけ。

永遠かもしれない

昨日からの続きなんで。
【あらすじ】
劇を見に行く。
照明がともり、客席からため息がもれた。
見た直後でわかっていることといえば、こういうものは活字では何一つ伝えられるものがないということくらいだ。
こりゃ、うまいなぁ。
うまいことやるもんだ。
ペンは剣より強し、とかいう言葉が作られていますが、僕のペンは舞台の空気と、音。
この劇場のあらゆる現実に、敗北したのだ。
もし僕が「KISS」の一員だったら、涙は何とも言えない色になっていただろう。
諸君には、もう5点与えねばなるまい。
誰なんだ撲は。
帰り道。
ふと、昨日から丸一日何も食べていないことを思い出す。
追記
「僕のペン」という言葉については、あまり気にするな。

見に行く

「舞台」というと、敷居が高いと感じる人が多いかもしれません。
僕もそんな一人。
だいぶ昔に、友人がやっていた劇団のを見に行ったのですが、それっきり。
先々週、それっきれました。
劇をやるという人々が集まり、劇をやるということなので、見に行きました。
情報、下調べは一切なし。
劇場の場所がわからず、30分ほど放浪してしまったため、最後のほうは赤信号をわたってしまうくらいテンパるほどの下調べなしっぷり。
見る直前でわかっていることといえば、やる場所とチケットの料金。
道に迷ったときの最終手段は交番であることと、赤信号でわたると車にクラクションを鳴らされることくらい。
そんなこんなで、円滑にではないけど、どうにか劇場に到着。
座る席がわからなくてスタッフのお世話になりましたが、どうにか到着。
なんだか満員です。
さて。
何が、始まるんだ…?。
さっきまでは時間に遅れそうで渋谷の中心でシアターグリーンを叫びそうでしたが、もう大丈夫。僕は渋谷の街にもまれ、強くなりました。
いいもの、見せてもらえるんだろうな…!?。
面白いもの系の劇だったら、俺の採点は、きついぜ?。
劇場内は暗転し、客席が一気に静まる。
やるほうも見るほうも、その準備が問われた。

突然、YUKIの「長い夢」が大音量で流れる。
シベリア少女鉄道の諸君。
95点獲得、おめでと。
明日に続く。

まちあい

人と待ち合うというシーンは、人間の人生において、数多い。
ゆえに、その待ち方も千差万別のはずだが、大きく分けても、だいたい3パターンくらいだと思う。
待ち合わせ場所直下で待つタイプ、少し離れて待つタイプと、待たなくてもよかったタイプである。
私は少し離れて待つタイプだ。
その理由は、なんだか待ち合わせ場所直下で待っていると、やる気満々な感じを相手に与えそうだからである。
「イヨッ!。やっと来たね。待ってたよっ!。」
気分的にはそんな感じだったとしても、基本的にこういう雰囲気はかもしたくないのである。
また、他の理由として
「実は今日の待ち合わせは嘘で、僕をだまそうとしているのではないか。」と考えてしまう点がある。
もしそうだとすると、待っているときに周りの人が「あの人待ち合わせで嘘つかれたんだ」とばれてしまうかもしれないため、前もって「待ち合わせていませんよ」風を演ずるのだ。
このように、裸子植物か被子植物かと言われたら、確実に裸子植物であるだろう私とは違い、待ち合わせ場所直下であぐらをかけるタイプは、かっこいい人だ。
考えるに、やる気満々で、だまされているという憶測を払拭できる人材であろう。
これからも被子ってもらいたい。
待たなくてもよかったタイプは、時間を守っていこう。
今度誰かと待ち合わせする際は気にしてみるといい。
ちなみにその場合は、待ち合い人数が相手と自分の2人だけのほうがいいだろう。
そうじゃないと、「先にみんなで集まって、待ってるあいつを遠くから見てよーぜ!!。」とかなる。
もし、あなたが何も深読みせずに待ち合わせ場所に到着してしまったら、「うわー待ってるよあいつ。」「あいつ、普通の顔してるよ!!」とか言われてしまうだろう。
一方、あなたもそういう魂胆だったとしたら、待ち合わせを計画した全員が忠犬やモアイを凝視し続ける結果となるはずだ。
結果、かわいいドーナツ化現象となる。

無断で超越

かねてより、僕は「ハッピーバースデーを歌うマリリン・モンロー」のモノマネが、もっと市民権を得てもいいと感じていた。
それは、一度見たことある人は必ずと言っていいほどできると思うくらいユニークで、まねしやすいものだ。
このあいだ、久しぶりにまねしてみた。
そうしたら、驚いた。
まねしているときの感じが、なんだかバナナマンのやる貴乃花に似ているのだ。
あの、バナナマンの、名前は出てこないんだけど、濃厚な方がやる、貴乃花。
そういえばあの貴乃花のモノマネは秀逸だ。
見る人はこう思う。
「もう、これは貴乃花とか、モノマネとかじゃない。シンボルだ。」
そう。
バナナマンの脂質な方がやるモノマネは、幼い日の貴乃花の、数少ない映像から得られたあらゆる情報を蒸留、凝縮した、貴乃花エッセンスだ。
そのため「幼い日の貴乃花」という観点からすると、バナナマンの何かが噴出していそうな方は、貴乃花を超えた貴乃花となった。
他人が本人を超えてもいいのだろうか、という疑問も生じるが、とにかくバナナマンの「リバウンド」の言葉が似合う方のやる貴乃花のモノマネは、そこまで昇華したのだ。
それに比べて、僕のマリ・モンは、なぁ・・・。
そして、バナナマンの名前はなんだっけなぁ・・・。

僕はくぎった。

神「最近、物事をまとめだした神がいるぞ!!」
神々「邪魔してやろう。邪魔してやろう。」
神「そこで、物事をくぎって、細かくすることにしました。」
神々「いいぞ。いいぞ。」
神「犬なんだけど。」
神「犬は、チワワからセントバーナードまで、かなりくぎりやすそうだぞ。」
神「そうだ。そうだ。」
神「僕の友達が、犬は片手で持てるか持てないかが分かれ目だって言ってた。」
神「手のひらに乗るってこと?。」
神「いや、犬の前足の間、後ろ足の間に腕を通して持ち上げるらしいよ。」
神々「おぉ…。」
神々「なんか、その愛くるしい感じのと、「くぎる」っていう言葉のギャップがなぁ…。」
神々「なんか、だめだよね。」
神「じゃあ、「くびる」は?。」
神々「おまえ!!。怒るぞ!!。」
神「なんだよー。くぎるのは賛成してくれてたじゃんかよー。」
神々「ぜんぜん違うじゃないか!!。いいことと悪いことがあるぞ!!。」
こうして、この神はくぎられた。
神はその後「サターン伯爵」と名乗り、数々の「くぎりによる細分化」(服のサイズ、雑貨、お笑い文化など)を巻き起こしたことは記憶に新しい。

僕はまとめた。

ついてないらしいよ。

「どんなに勧誘の人に声をかけられてもいいが、マクレーン警部補だけには声をかけられるな。」
ろくなことにはならない。
「No」などと言うような状況にしてはならない。
というのをいつか書こうと思っていたら、ダイハードの4が今度やるらしい。
時事的な話題は避けるのが当ブログの考え方なのだが、そうも言っていられない眠たさだ。
その証拠に、みてごらん。
今日の内容は、これで終わりみたいだ。

イメイジャーズその2

昨日からの続き
【あらすじ】
人は、本を読むとき、登場人物に何かしらのイメージを投影してしまうらしい。
それは一体何なのかを考えてみる。
ぶっちゃけ、そのイメージとは、幼いころの母親、父親像とか、そんなんです、たぶん。
まぁ、後は好きなコとか、グラビアアイドルとか、最近よく目の合うクラスの人気者、藤本くんとか。
そして、いろいろな経験から生み出された理想の男性、白馬の王子さま、同じく理想の女性、純真無垢な少女ですわ。
だから、映画を見て「原作のイメージとぴったりだった!!」というのは、「私の理想の男性とぴったりだった!!」ということになり、
あなたの、白馬の王子様はキムタクであり、オダジョーとなります。
現存してよかったネ。
白馬の王子様。
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結論が当たり前かつテキトーで申しわけないが、
本を読むというのは、自分の内側の一片を読むことに他ならないのかもしれない。
ちなみに。
僕が本を読んでいるときの登場人物の声は、男であろうが女であろうが、全部僕っぽい。
「っぽい」がつくのは、本を読んでいるとき、そんなことは気にしていないからである。
「本を読んでいるときの登場人物の声を録音できる装置」があったら。
…この設定って、結構いぢれる内容ではないかと思うが、どうか。

イメイジャーズ

原作が映画化なんかされると、必ずこういう話が出てくる。
「主人公のイメージが、原作と違う」。
別によいことだが、この事象によって、定義できる事実がある。
「本を読む時、人は登場人物のイメージを作る。」
先ほども言ったが、決して悪いことではないはずだ。
原作者も「俺のポルニムにそんなイメージのせやがって」とか言わないはずだ。
もちろん、僕が今回言いたいのはポルニムのことではなくて、生み出されるイメージの方だ。
これは、一体何なのだろうか。
上記の「主人公のイメージが、原作と違う」では、原作の既読者は、もう自分なりのイメージを主人公に持たせていることとなる。
ここで重要なのは、
多くの物語では、主人公がキッチンタオルや爪切りではないという点である。
原作の主人公は男、もしくは女であり、そうでなくても中性的であったり、人でなくても人間的な感情を持ち合わせていたりして、それほど今回の話題から遠く離れるものではない。
もし、そういったものを持ち合わせていないキッチンタオルが主人公だったら、おそらく文学界とキッチン業界に波紋を投じる。
だいたいの作品は、文学界に波紋を投げかけたいとしても、キッチン業界に波紋を投じたくないと思うので、こういう主人公は立てないであろう。
したがって、我々は「キッチンタオルのイメージが、原作と違う」というシーンに対して気をとられることはないと言える。
僕が気をとられるのは、たとえば男の読者が物語の女性パートを読むとき、どういうことになっているか、ということである。
読者が、異性のパート部分において何かしらのイメージを持つとするなら、そのイメージはどこからのものなのだろう。
本来、異性のパート部分なんて、読者は持っていない場合が多いはずである。
よって、そのイメージは外来であるはず。
何が起因なのだろうか。
明日に続く。